忘れられた人々=ニューディール時代の保守主義者
アメリカ大恐慌—「忘れられた人々」の物語(下) アミティ・シュレーズ エヌティティ出版 このアイテムの詳細を見る |
先日のレポートの下巻。副題の「忘れられた人々」にはいろいろな人があてはまると思われるが、一つには、ニューディール時代に不遇で、政府から悪者にしたてられた、保守主義者(というか競争を信じる意味での自由主義者)にスポットがあてられている。TVAに事業を妨害された電力業者や、中間搾取として訴えられたユダヤ人の鶏肉卸売り業者等、市場と競争のアメリカ的世界で成功者であったはずの人達が、悪者としてつるし上げにあう様子が描かれている。この本は解説にあるように、やや保守主義的なニューディールに否定的な見方に偏ったところがあるが、大恐慌の混乱と不信の中でこのようなことがあったことを記憶にとどめておくことは、今日の我々にとっても悪くないであろう。
ポストモダンとオタク・・・東浩紀
ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)
著者:東 浩紀 |
ポストモダン的観点で、ライトノベルや美少女ゲーム等のオタク的文化を分析したもの。大きな物語が崩壊した後に、データベース的・・・文脈からキャラクターが抽象化された世界・・・な世界がポストモダン的に出現するという前半の論考はわりとしっくりといくもので、後半の個別作品批評も私のようなおぢさんへのオタク文化入門になっていて大変参考になるし、普通におもしろい。ただ、そんな単純にうまくいくのかな、何か(ポストモダン思想の)ご都合主義になってないかな、という疑問は生じる。近代vs.post近代みたいな対立軸でものが語られるが、現代の我々はそういう論法に飽き飽きしている(江戸ブームなんかもそういう感覚から来ているのではないかなあ)。世のオタク達もこの考察のモデルをあまり良く受け取らないかもしれない。データベース的な文学をポストモダンと考えているが、自分の狭い経験で考えると、例えば、源氏はデータベース的じゃあないだろうか。オリジナルのコンテキストから逸脱して様々な変奏を生み出した。また、ギリシャ神話ももしかしたらデータベース的な気がする。近代という枠を超えて考察することも可能だと思うのだが、どうだろうか・・・。この本はそれなりに重要な指摘をしていると思うから、それに応える思想なり論説が出てくるのを見ていきたい。
ケルの名演:ブラームス「クラリネット五重奏曲」
ブラームス/Clarinet Quintet Horn Trio: Kell A.brain R.serkin A.busch 販売元:HMVジャパン HMVジャパンで詳細を確認する |
レジナルド・ケルは、イギリス流クラリネットの父と言っても良い存在だろう(その前となると録音が激減するので知らないだけとも言えるが)。イギリス流というとブライマー風の甘い感じを連想するかもしれないが、ケルはビブラートは使うものの、割と質実剛健な感じだ。ペイエの若い頃にちょっと近い(ペイエは年をとって良くも悪くも甘くなった)。ケルは比較的良い条件の録音が多く残されている。その中で代表盤として、このブッシュ弦楽四重奏団とのブラームスを挙げる。
この演奏は1937年の録音だ。録音状態は時代を考えればまあまあか。演奏の価値を毀損してはいないと思う。演奏を一言で言うならば「熱い」演奏だろう。古い名盤として知られている。自在にテンポが揺れ動き、アンサンブルが崩壊しそうになるぎりぎりの線で保つという際どい演奏だ。バックのブッシュ四重奏団はすばらしい。ロマン的な古い演奏とも言えるかもしれない。フルトヴェングラーとか好きな人は好むかもしれない。ちなみに、デッカのケル全集に含まれるこの曲は、この演奏ではないので注意が必要だ。このブッシュとの演奏のほうが優れていると思う。幸運なことにHMVではまだ手に入るようだ。
アメリカのデモクラシー
アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫) トクヴィル 岩波書店 このアイテムの詳細を見る |
「アメリカのデモクラシー」は、文庫で第1巻上下、第2巻上下の4冊でなっている。その最初の第1巻上を読んだ。地方自治に関する賞賛はあるものの、デモクラシーというよりは主に政治体制に関する記述になっている。アメリカの立法・行政・司法の仕組みについて概観してあるからアメリカ入門としても読むことができる。文章もそれほど難しくはない。19世紀だから現代とは違っているだろうが、基本的な所は(多分)変化ないと思う。書かれた時代は、合衆国憲法からは40年程度経っているが、南北戦争の前である。アメリカの制度設計が、アメリカという前例のない特殊な状況で、ある意味運良く機能したことが示されている。賞賛だけではなく、批判的な目も向けており、古典としての価値が感じられる。また、著者の母国フランスとの対比が興味深い。
EXIは「エクスィ」と読む
XMLコンソーシアムWeekに一日出てきた。お目当ては、W3CによるXML圧縮の標準EXI(Efficient XML Interchange)に関する講演だった。その場の結構な人達が驚いたのは、EXIを「エクスィ」と読むことだ。「エクシー」ではない・・・とか言いたくなってしまう(サラリーマンNEO)。
ブルンナーの名演:イサン「クラリネット協奏曲」
Isang Yun: Selected Works for Clarinet
アーティスト:Eduard Brunner (Clarinet) |
ブルンナーなんてどこがいいのかわからない・・・と思っている方も多いかもしれないが、彼の本領は現代曲で表れると言えるだろう。韓国の作曲家ユン・イサンのクラリネット協奏曲をその代表作としてあげる。しかし、残念ながらこのCDは廃盤になっていて、中古でしか手に入らない。ユン・イサンの交響曲は、あまりにもナショナリスティックでちょっと日本人な自分らには無理・・・と思ってしまうが、協奏曲については、基本、自我vs.社会みたいなわかりやすい対立軸になっているので、我々にも共感できるものだ(チェロ協奏曲も名曲)。クラリネット協奏曲は難曲だが名曲だと思う。邦人の優れたクラリネット協奏曲が(多分)ないから(アジア人として)この曲は貴重だ。ハイトーンとそれへ向かう分散和音の連続が主要なテーマとなるが、非常に力のある強烈な音楽だ。第三楽章冒頭の重音奏法は非常に感動的だ(楽譜見たけどやり方がわからない)。2楽章のバスクラリネットがイマイチだとか、ツッコミどころはないでもないが、あまり取り上げらない良い曲だと思うので、機会があれば聴いてみて欲しいものだ(日本人誰かトライしないかな・・・)。
録音の重要性
CDレビューをいくつか出しているけれども、自分のお気に入りCD選択基準として「録音」は結構大きなウェイトを占める。例えば、以前挙げたアバドのCDもその傾向がある。自分は、録音は普通に世の中に考えられているよりも、ずっと重要なものであると考える。録音というか、マスタリング一つで演奏の印象はがらっと変わってしまう。LP時代に名演と思っていたものがCD化されてがっかりしたり、またその逆にCD化されて魅力を発見するものもある。同じレコーディングが違う版(マスタリング)でCD化されるときに、それがかなり違う音であることがある。日本版とヨーロッパ版で音が違うことは良くあるし、廉価版で音が劣化するときもある(逆に廉価版で良くなることもある)。しかし、例えば、日本版とヨーロッパ版では一般に日本版のほうがよい・・・というような一般的な規則があれば良いのだが、それがどうもないらしい。ある演奏は日本版、ある演奏はヨーロッパ版等と規則性がなく、買うほうは頭が痛い。劣った版で聴いてしまうと、それは良い演奏ではないと切り捨ててしまうことがあるのでもったいない。また、新しい録音だからといって優れているとは限らない。古い録音でも優れた録音はある。これは結構不思議なことだ。技術の進化とは無関係ではないが、意外と相関は低い。例えば、CDの出始めは悪い録音が結構あったと言われる。技術を使いこなせていないからだろう。ハイテク=好録音ではない。
というように録音を重視する自分だから、必然的に古いプレーヤーを低評価してしまうことがある。代表的なのは指揮者で、例えば、トスカニーニはほとんどちゃんとした状態の録音を残していないと思うので、大変残念だ。フルトヴェングラーも録音状態が良いスタジオ録音だと、妙に迫力がなかったりして残念に思うときがある。クラリネットも古い録音(1950年代以前)で良いものを見つけるのは難しい。歴史的な録音はある。古い演奏で自分が評価するものとしては、例えば、レジナルド・ケルの録音がある。しかし、今の録音技術でケルをとったら、もう少し柔らかい音になったのではないかと推測する。残念である。
ライスターの名演:ブラームス「クラリネット三重奏曲」
ブラームス:クラリネット三重奏曲
アーティスト:ライスター(カール) |
有名なクラリネット奏者による演奏のうち、自分の非常に印象に残ったものを1つずつあげていこうかと思う。自分の入手した&聴いた狭い範囲なので、取りこぼしは多いにあると思う。ご了承願いたい。
まず第一回目は20世紀を代表する奏者といってもよいであろう、カール・ライスターを取り上げる。ライスターは年齢を重ねるにつれて進化した偉大なプレーヤーだと思うけれども、意外に進化後のソロの名演がないような気がする(あえてあげるとすればレーガーかな・・・それに比べて、オーケストラのソロは進化後のほうが名演が多い気がする)。音の美しさは増していると思うのだが、音楽的内容に若干の不満を覚えるのだ。そんな中で彼を代表する演奏として、あえて若いころ(確か20台)のブラームスの三重奏をあげる。ブラームスというと五重奏のほうがメジャーだけれども、この演奏は名演だと思う。ピアノはかなり良い雰囲気だ。ブラームスでは、ソナタも三重奏もピアノの役割が非常に重要だ。またチェロも良い。ラストはかなり盛り上がる。録音も非常に良い。三重奏に馴染みのない人には是非聴いていただきたい名演だ。
<宗教化>する現代思想
〈宗教化〉する現代思想 (光文社新書) 仲正昌樹 光文社 このアイテムの詳細を見る |
「集中講義!アメリカ現代思想」が結構おもしろかったので、同じ著者のこの本を読んでみた。いろいろ書いているが、非常に要約して言うと、哲学・思想は常に何か絶対的なものを仮定する「形而上学化」の罠に陥る危険をいつも持っていて、マルクス主義がそうだったが、現代フランスのポストモダンのような一見、形而上学化に背を向けているような思想でも例外ではない。その中で我々は思想を相対化し、宗教化する現代思想の罠に陥らないような行動をとれるのだろうか・・・ということだと思う。それなりにおもしろかったけれども、何か良い答えがないような・・・。自分の信奉する「自由」も一種の形而上学なのかもしれないが、それはそれで宗教として楽しんでもいいような気がする。
漢検問題について考えてみる試み
リンク: asahi.com(朝日新聞社):漢検協会、前理事長らを告訴へ 背任容疑 – 社会.
漢検協会は一方的に世論から責められてるようだが、自分はちょっと違和感を感じる。まず、上記記事の背任についてだが、確かに背任なのだろう。しかし、何か巧妙な蓄財方法をしたわけではなく、トンネル会社を作っていただけだと言うのだから、中の人が容易に気づくことではないか。それを自浄できないのがそもそも問題で、新理事長は天につばするようなものではないか。恥ずかしくないのだろうか・・・(外から来た人かもしれない。それは知らない。)
また、これだけの蓄財ができるだけ稼いでいるというのなら、「ご立派な」ことではなかろうか。公益法人で、文科省の保護・規制に従うのではなく、堂々と株式会社で運営してみたらどうか(今は規制されているのかもしれない。それは良く知らない。)。そもそも公益法人なんて肩書きがあるからこのような腐敗を招くのではないか。株式会社のほうが(ベストとは言わないが)まだ自浄作用があるのではないか。漢検自体が、資格というものを、公的な保護下ではなく、民間でやったほうがよいことを証明している。文科省が関与する理由としては、以下の2つが推定される。
1)資格試験ビジネスに対してインセンティブが働かないこと
2)トンデモ資格を作られないようにすること
1)は、漢検自体がそれを否定する事例となっている。優れていて、世の中に受ける資格を作れば、大きなビジネスになるのだ。漢検はDSソフトに展開したり、多角的な運営が成功した成功事例と言えるだろう。その成功を導いたという点に関しては、前理事長を評価してあげてもよいかもしれない(漢字ブームという幸運はあるが)。
2)は文科省にそれだけの見識があるとは考えづらい。資格に対する評価は市場にまかせるべきではないだろうか。
世間では、税金の保護を受けて、私的な蓄財が行われていることが非難されているが、むしろ、資格については民間にまかせるべきであることを、今回の事件は示唆しているのではないか。